離婚、就職、再婚、退職、引っ越し、病気・・・波乱万丈な私の人生

はじめまして!
nico(ニコ)と申します。
ご覧いただきありがとうございます。

今回は私について書かせていただきました。
振り返ってみるとなかなか波乱万丈だったなぁと感じた人生でした。

私がなぜ今フリーランスという仕事をしているのかについても書いています。
なんの参考にもなりませんが(笑)こんなやつが記事を書いているのか~とでも思っていただければ幸いです。

目次

一度目の結婚、出産、育児ノイローゼ

出産の写真

大学時代から付き合っていた2歳年上の彼と3年の付き合いののち、結婚しました。
結婚式はなんと、私の大学の卒業式の二日後という結構無理のあるスケジュールでした(笑)

結婚が決まっていたので適当に就活をしていた私は就職が決まるわけがなく、大学時代にバイトしていたコールセンターへそのままパートとして働くことになりました。
パートとはいえ、手取り15万ほどあり(地方都市住まい)二人暮らしだったので生活にも余裕があり、優しい彼との結婚生活は幸せでした。

そんな幸せな結婚生活もあるときを境に崩れ始めます。

結婚当初から子供好きな彼からはずっと「子供が欲しい」と言われていました。
子どもが苦手だった私はずっと彼と二人でいたいと思っていました。
それでも結婚したら子供を産むという暗黙の了解みたいなものがやはりありますよね。
私自身も「子供を産んであげないと」という気持ちもあり、「あと3年は二人で暮らしたい」というお願いをしました。

結婚から2年ほどが経ったある日、生理が来ないことに気づきます。
まさか、と思いつつ一人で妊娠検査薬を買いに行って検査したところ、「陽性」・・・。
あんなに子供はいらないと思っていた私でも嬉しさがこみ上げました。
会社から帰ってきた彼に伝えると泣いて喜んでくれました。

妊娠中も、つわりがひどいときにはずっと横についていてくれたり、食べたいものをすぐに買いに行ってくれたりいつも通り優しい彼でした。
そして立ち合いのもと、緊急帝王切開により元気な女の子を出産。

初めての子ども。
なにもかも初めての経験で、楽しいこともありましたが、私にとっては悩みが絶えない日々でした。
娘と二人っきりの空間。
原因がわからず、ずっと泣いている娘。
それを見て何もできない自分に悔しくて悲しくて泣いてしまう毎日。
相談できる相手もいない。

「なんで私はちゃんと育児が出来ないんだろう・・・」

いつのまにか私は育児ノイローゼになっていました。
娘が寝ていてくれている時間が安心し、寝てくれないとイライラする。
仕事中の主人に泣きながら「早く帰ってきて」と電話したり、泣きつかれて寝てしまう日々。

1年ほどこんな日々が続いたある日、引っ越しをしてママ友ができ、悩みを聞いてくれたことによりだんだんと私の心が軽くなっていきました。

しかし、私は自分と娘のことに必死で、彼の心の変化には気づいていなかったのです。

ある日彼に言われた一言
「子ども産んでから女として見れへん」

私が落ち着いてきたころから、仕事を理由に帰りが遅かったことや、夜のお店に行っていることが何度か発覚したことがありました。
絶望しました。
「あなたがほしいと言っていた子どもなのに・・・」

離婚へ

親子の写真

私たち夫婦は傍から見れば仲良し夫婦。
それはやはり彼といると楽しかったから。
しかし、優しかった彼とでも、喧嘩は確実に増えていきました。
今までにないほど激しい喧嘩もするようになっていました。

毎日イライラしていて、私の中で離婚を考える日が増えていきました。

いつものように深夜0時過ぎに帰ってきた彼に、喧嘩の勢いで「スマホ見せて!」と言いました。
さすがにゴネる彼。
いや、もう黒なのわかってるって。
見せてもらったスマホの中身は女の人と遊びまくっている写真が何枚も。(内容は伏せておきます笑)

私はあなたが欲しいと言った子どもを産んで、ノイローゼにもなって、私のすべてを子どもに捧げたのに、なんでこの人は毎日毎日遊んでいるの?

そんな私のぐちゃぐちゃな思いが一気にこみ上げてきました。

「離婚して!」

今思うと私のこの一言も勢いで出てきてしまった言葉だったかもしれません。
結婚して8年後、娘が5歳のときでした。

その言葉を聞いて彼は荷物を持って家から出ていきました。
もしかしたら「待って」とか、「いやだ」という言葉があったかもしれませんが、もう忘れてしまいました。

それからズルズルと別居状態が続いていて、親権や養育費のことで言い争いも何度かありましたが、娘の小学校入学も控えていたため私から「調停をしてちゃんと離婚しよう」と切り出しました。

調停では今までの言い争いが嘘のように彼はこちらの要求をすべて受け入れてくれました。
いつまにか以前と同じように笑いあいながら話していました。
「またご飯でも行こう」
そう言って私たちの離婚が成立しました。

シングルマザー、そして元夫との関係

母と子

娘が小学校へ上がるころ、私はシングルマザーになりました。
娘が生まれたころに購入した分譲マンション(2LDK)は私たち親子が住むことに。
正社員で働ける職場を探すためパートで働いていたイオンは辞め、就職活動を始めました。
最初に書いていたとおり、大学卒業後結婚が決まっていたためちゃんとした就活は30歳にして初めてでした。
「シングルマザーで30歳で雇ってくれるところなんてあるのかな・・・」
そんな不安がずっと頭にありましたが、娘を一人で養うため必死に探しました。

たまたま見つけた求人雑誌に事務職募集とあり、応募してみたところ面接ですんなり一発採用。
なんでも面接をしてくれた所長が「シングルマザーをほっとけない」と。
有難いお言葉で、大変お世話になりましたが、1年も経たない間に辞めてしまいます。
理由としては

  • 今後の業績が不安だった
  • 希望していない営業をさせられた
  • 正社員ではなく業務委託という雇用形態だった(聞いていなかった)

そして、また就活に励むのですが運よく面接を二社受けたうち二社とも採用が決まりました。
採用までに数カ月は覚悟していたのですがありがたいことに、すんなりと決まりました。
私が32歳のときでした。

元夫との関係は良好でたまにご飯を食べに行ったり、一緒にテーマパークへ行ったりしていました。
我が家に泊まることたびたびもありました。

ただ、シングルマザーとしての育児と仕事の両立は大変で、毎日毎日泣いていました。
そんな日々が続きとうとう私はうつ病と診断されたのです。
うつ病と診断されても病院では睡眠薬を処方されるだけだったのでそのまま放置していました。

新しい出会い、退職、引っ越し

引っ越し

シングルマザーになって3年ほど経った33か34歳のときに今の主人と出会い、3年ほど付き合ったのち再婚しました。
ただ、付き合っていた当時、遠距離恋愛だったため私たち親子が引っ越すことに。
そして約5年お世話になった会社も退職しました。

慣れない土地での生活や、誰も頼る人、話す人がいない環境で、引っ越して4カ月ほど経った頃から私の体に異変が出始めたのです。

汗が出るほどお腹が急に痛くなり、救急病院へ連れて行ってもらったり、ときには救急車で運ばれることもありました。
レントゲン検査や血液検査をしても異常なし
胃腸炎の可能性があるとのことで入院し、3日ほど絶食をしましたが退院後も同じ症状が続きました。
その後も毎日毎日、病院へ運ばれること日々が1週間ほど続きました。

そんなある日、病院の先生から「胆のうを取ってみる?」という提案が。
私は毎日のおなかの痛みで、藁をもすがる気持ちで手術を受けることにしました。

胆のうを取ってから症状はなくなったのですが、先生も胆のうが原因だったのかもよくわからないと言っていましたが、まあ結果オーライというかんじでした。

しかし、これはただの予兆に過ぎなかったのかもしれません。

手術をして平穏な日が戻ってきたと思っていた矢先、腕がだんだんあがらなくなってきたことに気づいたのです。
最初はそんなに気にも留めていませんでしたが、とうとうブラジャーのホックが留められなくなり、やっと「これはおかしいぞ」と思いました。

整形外科を予約し、診察してもらうことに。
結果は「原因不明」。
他の整形外科の診察を受けても「原因不明」。
ちょうど大学付属病院で好酸球性副鼻腔炎という難病の治療を受けていたのでそちらの内科で診てもらっても「原因不明」。5件ほど病院を回りましたがすべて原因不明で、ある整形外科の先生がリウマチ科の有名な先生を紹介してくださることに。

その時にはすでに両腕は90度ほどしか上がらず、全身の関節は固まり、指までこわばりで動きにくくなっていました。

そしてリウマチ科の先生に検査してもらった結果、レントゲンでも血液でも異常なし。
ついた病名が「線維筋痛症」とのことでした。
この病気は原因は不明で、症状も人によって色々あるので診断がつきにくいそうです。
(この病気についてはまた詳しく書きたいと思います)
2022/9/9線維筋痛症について体験談書きましたのでご覧ください

私は病院から帰って線維筋痛症について調べました。
そしてまず治らない病気だと知り、絶望し、毎日泣きました。

フリーランスの道へ

女性の後ろ姿

腕が上がらないことにより、週二回のリハビリに通うことになりました。
引っ越し後も正社員として働く気満々だったのですが、もちろん正社員は諦めることに。
全身も痛み、眠くなってしまう薬を常用しているためパートで働きに出ることもできず、毎日在宅で働けることは何か探していました。
色々なことを試していましたが結果がなかなか出ず、たどり着いたのがウェブデザインというお仕事。
高校生の頃に趣味でホームページを作っていたこともあり、これならできそうと思いました。
やはり最初は思ったように稼ぐことはできませんでしたが、他にできることも、やりたいこともないので粘り強くSNSでの発信や、ココナラでの販売をしていました。
そのときの様子は↓こちらで詳しく記事にしています。


すると徐々に売れ始めました。
はじめは単価は安いけど、実績を積むにつれ売れていくようになりました。

そして今はフリーランスとして以前会社で働いていた時の手取りぐらいは稼げるようになってきました。

現状

女性の後ろ姿

一時期は収まっていた鬱の症状ですが、線維筋痛症になったことによりまたうつ症状が出ています。
ですが、フリーランスという仕事を手に入れ、まだまだやりたいこともたくさん出てきました。
私の人生こうやってまとめてみると本当に色々なことがありました。(かなりまとめましたが書き出したら止まらないぐらいもっといろいろなことがあります・・・)
まだこれからも一波乱ありそうですが(笑)これからも楽しく記事を読んでいただけたら幸いです。

長くなりましたが最後まで読んでいただきありがとうございました!

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